久しぶりにドリアン助川さんのお名前を目にして、思わず読んだ記事。先日のALSの事件に関するコメントだけに、心落ちつけて静かに読ませていただきました。

その立場の方の苦悩と絶望を思うと、その方のお気持ちをわからないわけではない・・が、社会に何らかの働きかけをして生きてこそ人間だという社会の空気が追い込んでしまったのではないか・・と思うと述べておられます。

重要なのは、関係の中に自分の存在を見出すこと、花が美しいと思うドリアンさんが「積極的感受」と言って、人間はこの世を目撃し、感受するものとして存在するというとらえ方だそうです。

木・鳥・太陽・音・光・ひと・人工物など世界のすべてを、見たり、聞いたり、感じたりして関係を持つことに生きる意味はあると。

ドリアンさんご自身が仕事も収入もなく惨めだったころ、多摩川の河原を散歩していた時に、コスモスが風がそよげば踊り、鳥は美しい声を聴かせてくれた、花が美しいと思うドリアンさんが、花との関係の中に確かに存在し、それで十分。ご自分の人生の一部になったと・・。人間社会ではダメだけれど応援しているよ、と生命に励まされた感覚だったと。

時には社会に役立たなければという意識から解き放たれて、鳥を数えた一日や、星が見えたことが最高だね、と思えることに価値を置く社会であれば、こうしたことが天からの祝福だとその方が思えていたなら、違っていたかもしれないと私見を述べておられます。

「社会で出来ることが減ったとしても、感受出来る世界は減らない」生きる意味も生きてみないとわからない。からだが動かなくても、生きる意味をあきらめる必要はない。みんな、この世を享受たらしめる仲間です。
あなたには、今日、話しかける木はありますか?・・と。

ドリアン助川さんのこの、関係の中に自分の存在を見出すこと、「積極的感受」私も賛成しますし、そうだといいなあとも思いますが、身体が自分で言うこときかない状況だったら途方に暮れ、日に日に不自由が増えていく毎日だとしたら、その中で自分を奮い立たせ積極的に能動的に気持ちを持って行けるものだろうか?と答えの出ない私です。

ましてや、ご不自由でお外にも出られなければ、外気に触れることもなく、空を見ることもおありにならず・・。ですので、「分身ロボット」という画期的な開発がなされ、お動きになれない方が社会との接点を得てお仕事されるために、分身ロボットカフェ!の試みも始まっていると聞きます。

その身にならないと、いやその身になっても好奇心旺盛な私さえ前向きになれるか?自信がありません。大したことのない日常でも、ドーンと落ち込んだり、あっけらかんと立ち直れたり・・は、まあまあの体調だからこそで、不自由な日常があったら私だったらどうだろうか・・と深く考えるコラムでした。

雲の流れ、鳥の声、ベランダの小さな芽吹き等など小さな感動見つけても、傍に人がいて「ねえねえ、芽が出たよ!」と会話が交わされてこその小さな喜びかもしれませんし、人それぞれ楽しみの見つけ方は違うのでしょう。

コロナ真っただ中のある日、骨の障害を持って身長が1メートル少しの女性が新聞にこう書かれていました。「私達障害者は、コロナに限らずいつもこんな風ですので、コロナになったからと言って特段のことはありません。健常な皆様は、とても不自由に感じられてるのかもしれませんが・・」とあり、ハッとして何度も読み返しました。

この方の記事もドリアン助川さんの記事も、とても深く考えさせられる内容でした。
今後もいつも反芻し、忘れないでいたいテーマです。