近くにあっても遠くにあっても、大きな問題は絶対に大きい

一年も前の記事で恐縮ですが、やはりつくづくそうよね!と思ってしまいます。書いたのは浜矩子さんです。(記事は2020.3・2)

目の前に小さな牛さんのフィギュアがある。窓の外には本物の牛さんがいる。かなり遠くにいる。だから、大きさはフィギュアの牛さんとほぼ同じに見える。だが実は大きい。ただ遠いだけである。

小さいと遠い。この違いをフィギュアで遊んでいる幼子ちゃんに分かってもらうのは難しい。遠くて小さく見えてるから。別段、脅威を感じない。そんな存在が、実は大いなる危険物だということはあり得る。遠くてウロウロしている肉食恐竜からは、小さく見えてるうちに逃げるに限る。本当の大きさがわかるところまで近付いてきたら、万事休すだ。

新型肺炎も、遠い武漢の問題だった間は、小さなことに見えていた面がある。だが、接近してくる間に、みるみる大きな脅威と化してきた。

実は小さな問題が、近いから大きくみえることもある。某女優さんが薬物の常習犯だったということが判明した。本人にとってはともかく、世の中的には、さほどの大事件ではない。だが、近いから騒ぎが大きくなる。某政治家がいくメン宣言で点数稼ぎをする。それがどうした。だが、これが大型サイズの扱いを受ける。少しカメラを引けば、あまりにも小さい。

近くて大きな問題を矮小化しようとする人々もいる。例の「桜をみる・・」である。いつまでその追及に固執するのか、もっと遠くに目を向けて、彼方の大事に焦点をあてないか、当事者達はそんな風に言う。だが、この問題を小さなフィギュア扱いにすることは許されない。そこには、民主主義を理解出来ず、それを軽んじ、やりたい放題を貫徹しようとする政治の巨大な愚かさが横たわっている。その大きさを見損じてはならない。

小さいことと遠いこと。大きいことと近いこと。近くて小さいものと、近くて大きいもの。遠くて小さいものと、遠くて大きいもの。幼子ちゃんも、育つにつれて、これらの識別がつくようになる。
この識別に狂いがないことが、大人の証だ。我々は常に大人でなければならない。

一年も前のこの記事。なぜか気になります・・。