スマートな社会の果て (小さな新聞記事より・・)

ある日の新聞記事が目に留まりました。(荒井裕樹の生きていく言葉より)

某地のホスピスを訪ねた時のこと。単線電車に延々揺られて目的の駅に着いた。私の前には降車に難儀する高齢の男性がいた。片足が不自由なようで心配になり、降り切れるまでドア付近で待つことにした。

次の瞬間、男性は私をにらんで叫んだ。「なんでそんな意地悪するんだ!」
ぽかんとする私に怒声は続いた。「別のドアから降りればいいだろう!」

どうやら降車に手間取る高齢者に対し、私が「さっさと降りろ」と圧をかけているように受け止められたようだった。

その場では「なんだか気難しい人だな」としか思わなかったが、帰りの電車でふと気づいた。身体の不自由な人は日常的にこうした圧に晒されているのだと。

世間には「スムーズでない人」へ圧が溢れている。電車で人身事故が起きれば、SNS上には「電車をとめた人」への誹謗中傷が飛び交う。かく言う私も、改札やレジで手間取る人をじれったく思うことがある。

こうした苛立ちの底には「社会は円滑であらねばならぬ」と言う義務感があるように思う。この感覚が「私も効率よく動かねばならぬ」という焦燥感となり、「私を滞らせる者」へのいらだちとなるのだろう。

近年あちこちで「スマートさ」が賞揚される。だが、今以上にスマートを追求した社会は「歩調を合わせられない人」にとって超高圧な社会になるだろう。
         (障害者文化論研究者・荒井裕樹の生きていく言葉より)